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2004アテネパラリンピック
競技を始めてから、今年で12年。昨年9月、アテネパラリンピックという、私の中では4つ目の大きな挑戦が終わった。出場種目は陸上競技「5000m」そして「マラソン」。メイン会場はオリンピックで使用されたスタジアム。マラソンも起伏の激しいコースで、ゴールのパラシナイコンスタジアムまでの42.195kmを激走した。結果、5000mでは予選は1位で通過したものの、決勝ではアクシデントに見舞われ、レース展開としては自分の思い描くものでは無かった。しかし、その後、立て直し、金メダルを獲得するまで、漕ぎ着けた事は、今まで支えてくれた方々のプロフェッショナルなサポート力の証であると感じ、レース後は感謝の気持ちと安堵感で一杯だった。同じようにマラソンも金メダルを目標に取り組んできたが、同じ日本人選手に敗退し、銀メダルという結果に終わった。これまでの取り組み期間で、多くの方から「アテネ後の次の目標は?」と言われ続けてきたが、返答する事が出来なかった。なぜなら、私はいつも目標までは全力で突き進み、その結果を得て、生まれる感情を受け止めて、今まで挑戦し続けてきたから。その封印をとき破ったのはアテネだった。今回のマラソンのゴールラインを踏んだその瞬間に「次は北京だ!」と揺るぎない気持ちが生まれた。今はその思いを大事にしていきたいと思っている。
競技用車椅子
陸上といっても私たち車いすランナーは一般の足で走るスタイルではなく、スピードを出すために開発されたレース専用の車椅子(以下レーサー)を乗用する。3輪構成で前輪は大体18〜20インチ、後輪は26〜27インチと個々によって選択され、人其々である。そのため、タイヤや部品等の必需品とされる物は非常に自転車と近しい。メンテナンスはもちろん、専門のメカニックも存在するが、日頃から考えられるパンクや調整は各自で行い、選手によっては様々な工夫も成されている。年々、このレーサーも競技性が高くなると同時に研究開発され、日本のメーカーも世界に名乗りを上げた。道具も結果を左右する要因であるため、選手の中でも特に日本のメーカーは緻密度の評価が高く、ユーザーも多い。道具を使う競技は全てにおいて共通すると思われるが、道具と身体を一体化させなければならない。まさに「心技体」の世界である。
これまでの道のり
私は過去に冬季・夏季あわせて4回のパラリンピックに出場をさせて頂いたが、それぞれが異なった意味合いを持ちながら、貴重な体験として私の胸に焼きついている。私が17歳の頃、交通事故で脊髄損傷という障害を持ち、車いす生活になってから、約13年という月日が流れた。リハビリとして始めたスポーツから一貫して競技的志向に移行したのには差ほど、時間は掛からなかった。1993年12月。遊び心で体験したアイススレッジスピードレース(ソリを想像させる乗り物で、2本のスケートの刃の上にチェアーがあり、ノルディックで使用するストックで400mのリンクを用いて、スピードを競うもの)講習会がきっかけとなり、翌年に開催される冬季リレハンメルパラリンピックに出場してみないかと言う話が舞い込んできた。当時、夢のような話ではあったが、チャンスを無駄にはしたくないと参加の意を決めた。結果は惨敗。しかしその結果は私の闘志を掻き立てるものであった。その後、自国である冬季長野パラリンピック大会を視野に強化体制が挽かれたが、過程では様々な厳しい条件もあった。それでもスタッフ、選手が一団となって、その厳しさを乗り越えてきたからこそ、1998年3月長野でのメダル量産につながったのだと思う。しかし、長野以降、アイススレッジスピードレース競技はパラリンピックの参加規程である参加出場国及び人数を満たす事が出来なかったために残念ながら、廃止された。でも、私は、夏季のトレーニングとして陸上競技を取り入れていた事から、この競技に魅了され、次なる舞台を世界水準の高い夏季パラリンピックに移し、取り組んできた。以降、シドニーからアテネまでの活動は移り変わる時代と共に成長させて頂き、多くの財産となった。今、振り返ると、最短期間でここまで経験させて頂けたのは、人との巡り合わせとタイミングによって、進むべき道を歩ませて頂いていると感じ得ざるを得ない。そのことにまずは感謝をし、そして今後の競技への取り組みに活かしていきたい。
障害者スポーツ
私の目指している競技活動が、少しでも現代社会にこのスポーツを広める足掛かりとなれば、それは選手として非常に嬉しい事である。でも、真実を伝えていく必要性を感じている。その背景には指導者不足や選手の育成などである。海外では多くの取り組みにより、選手同様、スタッフの職業としての認知など幅広い活動が見られる。日本も理想を持ち、少しずつ改善はされるものの、現実は、非常に難しい。
それにしてもパラリンピックの参加基準は、一般のオリンピックとは少し異なり、面白い。トラック種目のように年々、記録が上がり、参加選手が絞られ、競技性の高いものになっているこの時代に、マラソン種目は未だに標準記録が低い。日本でマラソン種目は有力であると高評されているが、世界的にはトラック種目に力を入れている。そういったことから、オープン参加の思考が強いと考えられる。日本でのマラソンの競技レベルよりも世界の層が拡がらなければ、必然とこの水準も上がらない。それに最近では見直されてくるようになったが、中距離と長距離が一緒くたにされてしまう競技特性も、大きく影響しているように思う。
しかし、こういった多くの事情を抱えている世界ではあるが、まず、私たち選手は、障害のレベルに違いはあったとしても、選手として自覚を持ってレベルを上げていく事を第一に考え、競技力向上に努めたい。
日本人として、誇り高き世界の舞台で、日の丸を掲揚できるように。
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●2004年5月に大阪(長居陸上競技場)で開催された「ジャパンパラリンピック」でレース前の調整に励む土田選手。この大会で5000m世界新記録(当時)を樹立した。
撮影:越智貴雄
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撮影:越智貴雄
| プロフィール |
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土田和 歌子 選手
セイコ・ハシモト・インターナショナル 所属
1974年10月15日 東京都生まれ
高校2年の時、友人とドライブ中に事故に遭い、車いす生活に。
1993年アイススレッジの講習会に参加したことがきっかけで、日本で最初にアイススレッジスピードスケートを始める。リレハンメルパラリンピックに出場後本格的にトレーニングに励み、長野パラリンピックのプレ大会で1500メートル世界新記録をマーク。長野パラリンピックでは1500メートルで自身の世界新記録を更新し金メダルを獲得。1000メートルでも金メダル、100メートル、500メートルでは銀メダルを獲得した。
一方、陸上競技にも挑戦し2000年シドニー五輪の公開競技として行われる車いす800メートルレースに日本人選手として初出場し、銀メダルを獲得。
同年シドニーパラリンピック車いすマラソンで銅メダルを獲得。2001年には、大分国際車いすマラソンのフルマラソンで世界最高記録を樹立、2004年アテネパラリンピックでは、5000mで念願の金メダル、フルマラソンでは銀メダルを獲得。日本人初の夏冬『金メダリスト』となった。
現在、5000m・マラソン2種目での金メダル獲得を目指し、2008年の北京へ向け始動。
土田和歌子選手HP
www.sportsman.ne.jp/
tsuchida/
使用タイヤ:
(前輪)ラピーデ20
(後輪)ウルティママラソン&トラック
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