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16歳の夏、オートバイで車と激突して車椅子生活になる前は、元気に街中を走り回っていました。8ヶ月の入院生活の間に、色々な人が入退院をして自分の前を通り過ぎていき「俺だけなんでこんな目に…」と、自分を世界一不幸な奴だと思っていました。しかしその後、社会復帰の為リハビリテーションの病院に移り、自分より障害の重い人に沢山出会い、その人達の頑張っている姿を目の当たりにして、何か自分にもやれるものがあるはずだと思いました。
そんな時、車椅子バスケットボールチーム「明和B.B.C」に出会いました。最初は車椅子で早く走る事もボールを遠くに飛ばすことも出来ず、なんて自分はひ弱なんだと思いましたが、その悔しさをバネに、それから2年間は盆と正月以外は体育館へ通い、バスケット練習以外に、病院の裏にある坂道を毎朝晩往復するトレーニングを続けました。半年ぐらい経つと、試合にも出してもらえる様になっていました。
気がつくとバルセロナパラリンピックの第一次全日本選考合宿に呼ばれ、そのまま最終選考まで残り、あれよあれよという間にJAPANのユニホームに袖を通している自分がいました。自身初の国際大会出場ということもあり、緊張よりも興奮しっぱなしで、例えて言うなら、オリンピックでUSAのドリームチームと対戦しているような、そんな気分でした。パラリンピックを純粋に楽しんでいました。感動と興奮だけの、初めての俺のパラリンピックでした。その4年後の1996年、自分自身も成長と変化を遂げたつもりで、アトランタパラリンピックに出場しましたが、内容は自分の納得いくものではなく、少し苦い経験となった大会であり、自分のプレイスタイルや精神面を考え直すきっかけとなった大会でもありました。そして迎えた2000年のシドニーパラリンピックは、自分のバスケット人生の一つの節目ともいうべき大会となりました。
1999年に結婚したのですが、シドニーパラリンピックに出るために、バスケットに命を懸けるほど毎日トレーニングしていました。知人の言葉を借りて言えば、バスケット病でしたね。日々の練習に加え、国内合宿や諸大会、海外遠征などに走り回り、そのために休んでたまった仕事の穴を埋める残業と休日出勤の日々・・・。そんな中での、甘い生活とは程遠い新婚生活でしたから、嫁さんには「シドニーに行ったらそれで最後にする(引退)」と言いながらトレーニングに励んでいました。それでも、いざパラリンピックが始まると、仕事をしているにもかかわらず、嫁さんも全日程のツアーに張り切って参加してくれました。3回目にして初の家族の応援付の大会でしたから、とても嬉しかったですね。
結局シドニーでの日本の成績は9位でしたが、その時に今後の人生を変える大きな場面がありました。それは最終戦となる日本VSメキシコの9位・10位決定戦、ゲームの残り6.9秒で日本が1点ビハインドで迎えた、是友の2スローの場面でした。0本インなら負け、1本インなら同点、2本インなら逆転、のまさに息を呑む場面。普段なら神頼みはしないのですが、その時ばかりは「神様お願い!」と頼んでしまいましたね!綺麗に入ればいいものを、一本目はリングの根っこに当たって弾んでから入り、一瞬ヒヤッとさせられましたが、その後会場は割れんばかりの大歓声・・・深呼吸を大きくした後、二本目も無事入って見事逆転!!それには俺自身、鳥肌が立ちましたね。観客席の嫁さんは他の外人の観客と抱き合っているし、会場全体が最高に盛り上がっていました。5年たった今でも、その時のテレビ映像をビデオで観る度に体が熱くなりあの時の興奮が蘇ってきます。試合が終わった直後の嫁さんの一言は「アテネも連れてって!」でしたね。俺も引退を考えていたことなんか忘れ、アテネパラリンピックに行きたい気持ちがメラメラと沸いてきました。
しかし現実は厳しいもので、サラリーマンの自分には仕事が優先であり、大会や合宿に行くためには残業しなければならないし、残業があれば練習ができないし・・・と悪循環が続き、現実と理想とのギャップにイライラが募るばかりでした。そこで、思い切って退職しようと考えたものの、11年勤めた会社で安定していたことや、当時嫁さんが妊娠していたこともあり、今後の生活に対する不安ですごく悩みました。周りの人達にも相談しましたが、意見は賛否両論でした。「辞めるなんてあほやな!」「ええ会社やのにもったいないよ!」「懸けれるものがあるなんて羨ましい!」・・・等々。悩みぬいた末、結局退職することになったのですが、嫁さんとの結論は「ま、なんとかなるか!」でした。
それがアテネパラリンピックの2年前(2002年)で、それからは仕事の重圧から解放され、思いっきりトレーニングに励むことができました。トレーニングをしている体育館が自宅から40Kmほど離れており交通費も時間も無駄に掛かっていたため、バスケットのためだけに、あっさりと体育館の近くに引越したりもしました。トレーニングメニューは現全日本チームのトレーナーに相談し、午前中は筋力トレーニング、午後はシューティングにチーム練習、自分の納得のいく充実したトレーニングが出来る様になりました。今にして思えば、アテネというはっきりとした目標に向かって、生活の全てがバスケット中心で、何も考えずただひたすらにバスケットに打ち込めたあの時は、自分にとって本当に楽しく幸せな時間だったと思います。
その甲斐あってか、2004年の5月に所属チームの明和B.B.Cが12年ぶりに“内閣総理大臣杯争奪日本車椅子バスケットボール選手権(全国大会)”で優勝し、自分もMVPに選ばれてアテネに向けての大きな自信となりました。その年のアテネパラリンピック最終選考会では、自分の持てる力を存分に発揮し、めでたく代表に選ばれました。選考結果の通知よりも先にヘッドコーチから内定の電話連絡がありましたが、嬉しいのと信じられない気持ちとが混ざって、正式に文書で見るまではしばらく不安でしたね。
アテネには、嫁さんの母親と妹も応援に来てくれ、勿論、嫁さんもアテネ応援ツアーに全日程参加し、一人娘も2歳にしてアテネデビュー、その他沢山の人達が遠いアテネまで応援に来てくれ、自分自身に力を与えてくれた大会になりました。結果は8位でしたが力を出し切り、悔いはありません。帰国後は、小・中・高校への講演活動も多々あり暫くはアテネムードが続きましたが、無職のままでしたので、車椅子バスケットで食べていけるわけもなく、貯えもどんどん減っていき就職しないと厳しい状況でした。
ちょうどそんな時、シドニーパラリンピック以来、車椅子の物品提供をしてくれていた、車椅子メーカーである日進医療器株式会社(愛知県)から就職の誘いがあったのです。日進医療器株式会社は医療車椅子の日本一のシェアを誇る会社で、車椅子バスケットをすることを中心に北は北海道から南は沖縄まで、全国各地でスポーツ用車椅子の販売を行うという俺にとっては最高条件の元で、就職が決まりました。今後は、自分が必要とされる限り車椅子バスケットを続けていくつもりであり、後輩の指導を行っていきたいと考えています。そして、自分としての現在の目標は、やはり、北京パラリンピックに出場することを視野に入れて、これからもバスケットに打ち込んでいくことです。
この13年間全日本代表としてプレイをしてきましたが、改めて振り返ってみると、リングにボールが届かなかったあの頃からは想像もつかないほど、自分自身プレイ面も精神面もすごく成長し、周りから目標、憧れを持たれる選手にまでなることができました。その背景には色々な犠牲もありつらい経験もしましたが、今の自分があるのは明和B.B.Cに出会えすばらしい仲間たちに出会えたおかげだと思っています。どんなときでも、いつも仲間に支えられ、周りの大勢の人達の協力や良きアドバイスがあったことに感謝の気持ちでいっぱいです。
是友京介のバスケット人生はこれからも続きます。自分にはまだまだ可能性があるのだと信じ、今後も進化し続けていきたいと思っています。今後の活躍にご期待下さい!!
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